文・写真/如月サラ
同じ街にどれだけの間、縁があったかということで言えば、東京・銀座が一番長いことになる。銀座三丁目、歌舞伎座の裏にある出版社に20代の終わりから22年の間、勤めていた。
20代で九州・熊本の故郷から出てきたばかりの私は、銀座の会社の中で、息を潜めて都会に慣れようとしていた。
田舎育ちで「小さい頃に親と銀座で買い物や食事をしていた」「学生時代に映画を見に来た」といった経験がまったくない。襟足をつまんでポトリと地図の上に落とされたらそこが銀座だった。そういう心細さがあった。
銀座は八丁目まであり、三丁目は賑やかさと静けさが一体となったエリアだ
雑誌の編集という、どこかに出かけることの多い仕事だったので、銀座から他の街へ出かけては帰ってくることが日常だった。原稿を書く時期は会社にこもって、昼は少し歩いてランチに出かけた。そうしているうちに、銀座三丁目を中心とした地図が私の中に徐々にできあがっていった。
22年が過ぎたときに、自分自身に賞味期限が来たと感じた。退職届を出して、最後の荷物を取りに行く日は早朝を選んだ。かつて何度も徹夜で原稿を書き、帰るときに通った裏口を入ってふたたび出るとき、自分で決めたこととはいえ、なぜかぽろりと涙が出た。
銀座のカフェで出会った15歳の犬
私の仕事人生のほとんどすべてがこの場所を中心に回っていたからだ。ささやかな私の人生のキャリアをすべて、ここに置き去りにしてゆく。銀座三丁目を中心とした地図は、もう役に立たないのだ。
それからはできるだけ銀座に足を運ぶことを避けた。新しい地図を作っていかなければならなかったからだ。銀座へ行くと、強い力でここに引き戻されてしまうという気持ちがあった。
1881年創業の老舗の宝飾・時計店である天賞堂の店頭にいるキューピッド
あれを試したり、これを試したりしながら、ゴウゴウとした荒波に揉まれて、沈まないようにするだけで精いっぱいだった。これまでどれだけ大きな船に乗っていたかを初めて知った。それに、一緒に航海する同僚たちもいた。
今はひとりでオールを握っている。海面はすぐそこに迫り、晴れた日は美しく光を反射して恵みを分け与えてくれるが、いつ嵐が迫ってくるかわからない。
あれから7年経ち、あるカラリと晴れた日曜日に突然、もういいかな、という気持ちになった。地下鉄に乗り、銀座駅で降りて地上に出ると、色づき始める前の柳が立ち並び、風に揺れて光った。
10月といえどまだまだ夏の盛りのようだった
そうそう、これが銀座だった。
縦に横にと銀座を歩いた。伊東屋の赤いクリップ。和光のウインドウ。鎮座する銀座三越と松屋銀座。かつて松坂屋銀座店だったGINZA SIX。建て替えられたソニービル。ちょうど私が銀座の会社に通い始めた頃に日本1号店がオープンしたスターバックスコーヒー。銀座通りは歩行者天国だ。不思議だった。何もかもが、懐かしくそして新しく見えた。
1904年創業の老舗文具店である伊東屋は赤いクリップが目印
私を未練がましく過去へ引きずり戻そうとするものは、そこにはなかった。私は真新しい気持ちでただただ、銀座の美しさと、積み重ねられてきた歴史を思った。
1932年に建設された奥野ビルのエレベーター
もう少し、この空気を感じてから帰ろう。銀座のランドマークのひとつである泰明小学校の向かいにあるカフェに座って、シャンパーニュをオーダーした。ボーイが現れ、クープ型のグラスを置く。そしてなみなみと注いだら、それはなんと、グラスの縁をどんどんあふれだしてゆく。
オーバカナル銀座の「こぼれシャンパーニュ」。日本酒の「もっきり」スタイルで受け皿にもなみなみと注ぐ
それを見ていたら、私の記憶もあふれだした。田舎から東京に出てきて、初めて銀座三丁目の会社に行ったとき、銀座という華やかな街は私のそれまでの人生とは縁のないところだったと思った。
しかし、そうではなかったのだ。家族旅行をほとんどしたことのなかった両親と私は、かつて私がまだよちよち歩きの頃に、東京に住む叔母を訪ねて3人で東京に来たことがある。その時に東京交通会館の回転レストラン「銀座スカイラウンジ」で食事をして、銀座通りを歩いていた。
中央通りと晴美通りが交差する銀座四丁目はまさに銀座の中心地点
その時、写真家だという人がやってきて、あなたの写真をたくさん撮ってくれたのよ。何という方なのか、本当に写真家だったのかはわからないけどね。そう母が言っていたことがある。まさか、その銀座にある会社にあなたが勤めることになるなんてね。
母は私が銀座三丁目の会社に入社する前に確かにそう言っていたのだ。忘れていた。
今は、私自身がカメラを持って銀座を歩いている。きっとその時と変わらず美しい街だ。私の人生、一巡りしたんだな。なんだかすべてに納得がいって、もうだいぶ泡の消えかかったシャンパーニュを飲み干した。
如月サラの[葡萄酒奇譚]バックナンバーはこちらから
https://www.whynot-web.jp/author/sara_kisaragi/
如月サラ(きさらぎさら)
作家。マガジンハウス勤務時代、
Hanako編集部で90年代からワイン特集に携わる。
仏シャンパーニュ騎士団シュヴァリエ叙任。
猫5匹と東京と熊本の二拠点生活中。
趣味は写真撮影。
著書に『父がひとりで死んでいた』(日経BP)