日本のシャンパーニュ輸入量は世界第4位、コロナ禍ではナイトマーケットの売上げは自粛営業もあり鈍化したが、2022年の日本向けシャンパーニュ輸出は数量・金額ともに20%以上増加して過去最高を記録した。と、シャンパーニュ委員会(CIVC)が公式に発表した。
ここから見えてくること、それはシャンパーニュは一時期の「外で飲むハレ」のワインから、コロナ自粛によって「自宅で楽しむ、お祝い酒、ご褒美ワイン」としてより身近に楽しむ存在になったのではないだろうか? もちろん裾野が広がるとても喜ぶべきことでもある。
レストランならば、その店のオンリストメニューから選ぶしかない。当たり前だが自宅なら選び放題だ。ワインに詳しくない人でも、聞いたことがあるシャンパンばかりではなく実は有名で美味しいという多くの知らなかったシャンパーニュから自分でセレクトして楽しめるのだ。特に年末年始は、自宅での食卓に登場する機会が増えるだろう。ということで今回の「年末年始」に飲みたい「シャンパーニュ」に「ピエール・ペテルス」を紹介したいと思う。
「ペテルス家」サーガ(物語)から見えてくるシャンパ-ニュへの矜持
「ペテルス家」サーガ(物語)から見えてくるシャンパ-ニュへの矜持
少し前になるが、シャンパーニュ「ピエール・ペテルス」のオーナー兼醸造家のロドルフ・ペテルスにお話を聞く機会をいただいた。ワインを始めとしたお酒の背景には、造り手たちのドラマが必ずある。それを知っているのと知らないのとでは、飲む楽しさや美味しさも確実に変わってくる。今回はそんな思いを強く再確認したワインの紹介なのである。
彼、ロドルフ・ペテルスは、シャンパーニュ・メゾン“ピエール・ペテルス”のオーナー兼醸造家。コート・デ・ブランの中心部に位置しているル・メニル・シュール・オジェ村にあり、6世代に渡ってペテルス家が引き継いでいるメゾンだ。1970年代生まれのルドルフが6世代目である。ルクセンブルクからフランスに渡り、今から165年前の1858年に6世代前のガスパール・ペテルスからその歴史は始まった。
シャンパーニュ・メゾンとしての矜持がこめられているのは、ルドルフが次に語った言葉である。
「シャンパーニュ・メゾンのラベルには設立 16世紀、17世紀や18 世紀と書かれ、これはよく見る数字ですが、ちゃんと全体を見ていなければ、意味のない数字だと思っています。設立が 100 年前だろうが、150 年前だろうが、当時やってきたことと今我々がやっていることは全く世代も時代も変わってきているので、現在ではワインの生産者としてシャンパーニュ・メゾンはそれぞれ動いてはいますけれども、当時は単なる栽培家や農家としてやっていたところもあるので、この辺はしっかりとその数字が何を意味するのか、実質何年でも何を意味するのかってことを見ていかなくてはいけないということなんです」 この言葉を彼が自己紹介とともに最初に話してくれたことは、彼らメゾンの「受け継がれてきたもの」を語る序章だった。
実際、2世代目のルイ・ジョセフの代まではブドウ栽培農家として引き継がれ、その息子の「カミーユ・ペテルスが「カミーユ・ペテルス」のブランド名で「レコルタン・マニピュラン」として、1919年にシャンパーニュ醸造をスタートすることになる。
「ペテルス家は私で 6 世代目と申し上げましたけれども、この最初の 2 世代は農業をやっていました。ブドウ以外の農作物も育てていて、実際にこのペテルス家がシャンパーニュを名乗れるような活動を始めたのは私の曾おじいさんの時代です。いまでもメゾンには、第一次世界大戦時代に造られた一台の古いブドウプレスマシンがあります。当時ブドウ栽培農家の立場は弱く、収穫後タイミングが悪いと買ってもらうことができない事態が起こるという状況もありました。当時は安定的にブドウが売れるという環境ではなかったんです。“収穫をしたブドウを買えません”といきなりなった時には、もう農家の人々にはなす術はありません。その事態になったとき、その残った買ってくれないブドウをどうするかと考えた時に、仮にブドウが売れなくても自分たちでプレス圧搾ができたら、果汁になってる状態のものだったらもしかしたらその後売れるかもしれない。そして果汁から醸造してワインになった状態だったら、またそれでさらに売るオプションが残る……と、結果的にはすべてリスクヘッジのために曾おじいちゃんがこのプレスを購入しました。これが残してあるプレスマシンなんです」
第一次世界大戦後に購入したプレス機
結果的にブドウが売れなかった年にはそれを果汁として残し、その果汁として残したものが結果的にはワイン(シャンパン)になっていくという自然な流れ(レコルタン・マニピュラン)が出来上がっていったわけだ。これはいまから100年程前の話だ。当時はシャンパーニュ地方ではスパークリングワインの生産が 6 割ほど、残りの 4 割はステイルワインだったという。このステイルワインは、ヴァンナチュール・ド・シャンパーニュという名前で販売されていた。当時は実際にスパークリングワインを作ることは「一次発酵」はできても「瓶内二次発酵」は「酵母」の問題があり、それを上手く解決できる技術や知識が当然いまと違い、現代では簡単に解決していることでも昔は解決できなかったということが多々あったという。そのため6割程度の生産量というわけだ。
「現在のこの環境があってこそ、科学が進んで酵母が選べるようになり、造られたワインはラボでしっかりと研究もできるようになって、そしてエノロジスト(エノロジスト:ぶどうの栽培のみならず、収穫・醸造・びん詰めに至るまで全行程を指揮し監督するスペシャリスト)という専門家も出てきて、要はシャンパーニュの醸造というものがしっかりと制御された環境の中でできるという条件が今揃ったからこそのシャンパーニュがあるわけであって、やはり 100 年前というのはこういう環境が揃っていなかったので、大手のメゾンもシャンパーニュの生産に関しては相当苦戦したという聞いています。なので、我々のような本当に小さな栽培家であったペテルス家がワインを造り売ることによって、時代を切り拓いていったのは曾おじいさんカミーユの功績であり、大きなスタートだったのです」 【レコルタン・マニピュラン(Récoltant-manipulant)は、フランスのシャンパーニュ地方でブドウ栽培からワイン醸造まで一貫して行うシャンパーニュの生産者のことを指す】
ピエール・ペテルスはブドウ栽培家としては非常に歴史のある存在であり、カミーユが始めた栽培家がワインを造るレコルタン・マニピュランという、当時は非常に珍しい存在だった。このレコルタン・マニピュランが、実際に日本で一般的に知られるようになったのは20年程前。レコルタン・マニピュランのフランスでのウエーブ1回目は第二次世界大戦後、2回目は70年代、そして3回目は最近のRMシャンパン人気だという。世代交代も進み、農協などに売っていたブドウを自分たちでキープするようになり、そして世代交代によって担ってきた彼らがRMを始めというのは本当にここ 20年50年の間に始まったことであり、ピエール・ペテルスは大体100 年ぐらいこれを継続していることになる。
カミールの後を継いだのは彼の息子のピエール氏(4代目)。彼は自分たちが瓶詰めしたワインに「シャンパーニュ ヴーヴ・カミーユ・ペテルス」という名前でリリースしていたが、正式に「ピエール・ペテルス」という名前になったのは1944年だ。
このピエールはまさに中興の祖という存在。彼の時代に、自分たちが栽培したブドウを100%使用し生産・リリースするとともに新規顧客開拓や各地のトレードショーに出展し、ブランド認知に大きく貢献していくことになる。畑もこの時期7hから15hに増やしてもいる。また、時代背景は第二次世界大戦後、シャンパーニュ業界は空前の成長期で高度成長期に突入することになる。いろいろなものが再構築・再建築されていた時代でコート・デ・ブランはとてもエキサイティングな時代に移り変わっていく。
その後ピエール氏の後を継いだのがロドルフの父親フランソワ氏(5代目)で、彼の時代に畑は17hまで引き上げられた。その後40年間経営を担い、2007年ロドルフ氏が醸造長に就任し、2008年正式にオーナーとして引き継ぐことになる。ちなみにロドルフ氏は、著名な醸造家ジャック・ペテルス氏(ヴーヴ・クリコの元醸造長)を叔父に持ち、恵まれた環境で育った。現在では、多くのコンサルタントも手掛けるなど、メニルを代表するシャンパーニュの醸造家としての地位を確立もしている。だからこそ、ロドルフは醸造責任者として栽培と醸造テクニックの向上に力を注ぐとともにブランド認知にも取り組み、輸出量を全体量の50%から85%へ成長させ、2011年には総栽培面積を20hまで引き上げた。
「やはりこの家族経営のドメーヌにとって最も大事なことは、継続的に品質と品質を保っていくこと。そして今までのノウハウを忘れない伝承が成り立っているかということが重要だと思います。そして数年前「ピエール・ペテルス」はまた大きな転機を迎えます。私の父親とそれから私の叔父(ジャック・ペテルス)と私 の3 人で新たな決断をすることになりました。それはこの「ピエール・ペテルス」というブランドがネゴシアン・マニピュランのカテゴリーに入るという決断です。その経緯はこの約4年にわたるコロナの影響が大きく、経済停滞によって「ピエール・ペテルス」だけの問題だけではなく他の栽培農家の経済業況など、栽培農家からも購入できる状況(単に買い入れるだけではなく収穫等のコンサル等することでより自社畑のような品質になる)により「ピエール・ペテルス」として向上したシャンパーニュ造りができるという複合要素もあってネゴシアン・マニピュランという決断を下しました」
【ネゴシアン・マニピュラン(NégociantManipulant)とは、シャンパーニュ地方で自社畑のブドウと栽培農家から買い付けたブドウで醸造・販売を行う造り手のことを指す】
「ピエール・ペテルス」のメゾン(造り手)の哲学
「1 つ目としましては、やはり謙虚でいること。何に対して謙虚かというと、自分たちがコート・デ・ブランドのこの畑を持っていられるということに、そして素晴らしいブドウが毎年収穫できることということに対して謙虚でいるということ。この素晴らしいテロワールがあって、自分の個性を目の前に出しすぎずしっかりとそのブドウの個性を出していくということが大事だということ。
2つ目は素材を大事にしなさいということですね。これはですね。特定のレシピを作って、そのレシピを使って毎年同じものを作り上げるような自分にはなるな、ということ。隣人がやっていることが素晴らしいからといって、違う畑を持っている自分が同じことをコピーするなということ。もちろん自分のそのスキルやテクニックというものはとても大事なんですけれども。それにあぐらをかくことなく、しっかりとこの目の前の自然を見ながら、その素材を大事にしてその素材に対して自分が適応していくという、そういうスタイルの醸造を心がけるということです。
来日した「ピエール・ペテルス」6代目オーナー兼醸造責任者
シャルドネに恵まれたテロワール
「ピエール・ペテルス」はシャルドネのテロワールのとても恵まれたところに畑を持っている、ことにこだわりがある。栽培は100%シャルドネ。平均樹齢は35年で、65年を超える古木もある。ペテルス家が所有する畑の地形の微妙な変化(マイクロ・クライメイト)や気候変動に対して減農薬栽培を行い、また昨今において主流となりつつあるクローン・セレクションではなく、マッサル・セレクション(代々引き継がれてきた自分の畑で、時間をかけて優良な株を選定。それを苗木として使用する方法。)にこだわることで、シャルドネ本来のアロマとテロワールがしっかりと表現された、エレガントでピュアなワインが醸造されている。
冒頭に彼が私たちに伝えたかった「年月」の数字に意味などない、ましてシャルドネ愛なんて一言で解決できるほど自然相手に柔な言葉で解決できることではない。そこにいたる道筋、時に科学や先人たちの知恵をその時々にそのやり方で再生していこうとするプライドの有無が数字やワインに現れると伝えてくれたのだろう。
そんなドラマツルギーをもったピエール・ペテルスのシャンパーニュ、飲んでみたくなりまさんか?
未体験の方ならば間違いないオススメは
「ピエール・ペテルス キュヴェ・エクストラ・ブリュット ブラン・ド・ブラン グラン・クリュ」
「ピエール・ペテルス キュヴェ・エクストラ・ブリュット ブラン・ド・ブラン グラン・クリュ」
品種/シャルドネ100%
透き通っている黄金色、柔らかく、糸を引くようなきめ細かい泡立ちです。
新鮮なパン、ローストしたアーモンドのアロマがあります。引き締まっていてピュアな印象で余韻とても長く、ル・メニル・シュール・オジェのチョーク質土壌特有の海塩やヨードも感じられます。
醸造/コート・デ・ブラン(ル・メニル、アヴィーズ、クラマン、オジェ)の4 つの選抜された優良区角からおよそ80%、1988 年から良年のヴィンテージのみを注ぎ足しながら保管しているパーペチュアル・リザーヴを20% 使用しています。36ヶ月以上、澱と共に瓶熟成を行い、デゴルジュマンをしています。ドサージュ:2 g/l